永谷園「東海道五拾三次フルセット(全55種)プレゼントキャンペーン」当選!


永谷園東海道五拾三次フルセット(全55種)プレゼントキャンペーン」当選品。



歌川広重(1797-1858)

寛政九(一七九七)年、江戸八代河岸の火消同心の子として生まれ、安政五(一八五八)年、江戸に没した浮世絵師です。本姓は安藤、幼名は徳太郎。「一遊斎」、「一幽斎」の雅号も用いました。十三歳で両親を亡くし、家職を継ぐものの、画家を志して歌川豊広の門人となりました。
文化九(一八一二)年から「広重」と名乗り、画壇デビューを果たします。
美人画や武者絵、役者絵など多くの分野を手がけ、天保四(一八三三)年頃、版元・保永堂からお馴染み「東海道五拾三次」を発表したことによって、風景画家としての地位を固めました。広重の風景画は詩情に富み、江戸の人々の日常や自然に対する、親しみのこもった眼差しが随所に垣間見られます。実は広重は、よく知られた保永堂版以外にも生涯で十種類以上の東海道のものを描いており、一方では愛らしい動植物を描いた花鳥画などにも優れ、また、版画のみならず肉筆画も残しています。

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東海道五拾三次フルセット(全55種)
「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景」

東京都江戸東京博物館 Image:東京都歴史文化財団イメージアーカイブ

1 日本橋 朝之景(Nihonbashi, Morning Scene.)
 五街道の起点である日本橋は慶長八(一六〇三)年に架けられました。「お江戸日本橋七つ立ち」の歌からもイメージされるように、場面は暁。まだ眠りから覚めぬ江戸の町で、市場から仕入れてきた魚や野菜を運ぶ商人たち、犬たちは早起きです。橋の上には、早くも旅路につく大名行列の一行が現れています。彼らが高輪に着く頃、ようやくあたりは明るくなってくるのでしょう。さあ、ここから終着地点の京都三条大橋まで、一二六里(約五〇〇キロ)の旅が始まります。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 品川 日之出」

東京都江戸東京博物館 Image:東京都歴史文化財団イメージアーカイブ

2 品川 日之出(Shinagawa, The Sunrise.)
 日の出前に日本橋を出発した大名の行列は、太陽が顔を覗かせる頃、東海道の最初の宿場、品川付近にさしかかります。茶屋の前を通り過ぎるのは、行列の最後尾の人たちです。画面左には真っ青な海が広がり、停泊していた船も徐々に帆をあげて動き始めています。広重の「東海道五拾三次」シリーズは大人気を博したためいくつもの異なるバリエーションが制作されましたが、この品川宿の別の図には「あなご茶漬け」を売る茶店が描かれているものもあります。
お茶づけは、粋な江戸の人々にも親しまれていたのです。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 川崎 六郷渡舟」

東京都江戸東京博物館 Image:東京都歴史文化財団イメージアーカイブ

3 川崎 六郷渡舟(Kawasaki, The Rokugō River Ferry.)
 江戸を出発して四里半(約一八キロ)、東海道の旅は現在の多摩川にあたる六郷川にさしかかります。洪水よって六郷橋が流されたため、元禄年間(一六八八~一七〇四)以降、渡し船が活躍しました。画面を見ると、一艘の船があと一息で対岸へとたどり着こうというところ。舟の上には優雅に煙管をくわえる人がいる一方で、舵取りは全身に力を込めて一生懸命漕いでいます。向こう岸にはたくさんの荷物を馬に積んで待ち構える人たちや、会所で舟賃を払っている人の姿が見えます。大小の木々の細やかな描写、遠くに姿を見せている雪化粧をした富士山のすっきりとした表現にも、広重の工夫がうかがえます。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 神奈川 台之景」

東京都江戸東京博物館 Image:東京都歴史文化財団イメージアーカイブ

4 神奈川 台之景(Kanagawa, View from the Bluffs.)
 ひとつ前の宿場、川崎宿から二里半(約一〇キロ)進むと、この神奈川宿に到着します。眺めの良い台地には、いくつもの茶屋が軒を連ねていました。画面を見ると、急な坂を登る途中で客引きつかまる旅人たちの姿がユーモラスに描かれています。
左側に広がる海には幾艘もの船が遠方までリズミカルに連なり、旅の疲れを忘れさせてくれるような、ひとときののどかさが感じ取れます。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 保土ヶ谷 新町橋」

東京都江戸東京博物館 Image:東京都歴史文化財団イメージアーカイブ

5 保土ヶ谷 新町橋(Hodogaya, Shinmachi Bridge.)
 江戸を出発した大名行列が最初に宿泊したのが、この保土ヶ谷です。広重は、帷子川に架かる帷子橋(新町橋)を渡って間も無く宿に到着する旅人たちの姿を描いています。袋に入った尺八を腰にさした僧や、駕籠に乗った武士と共の者が向かう先には、「二八そば」の看板を掲げる茶屋が見えます。
長旅には腹ごしらえが欠かせません。お茶づけと同様に、蕎麦も江戸の人々に愛された食べ物でした。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 戸塚 元町別道」

東京都江戸東京博物館 Image:東京都歴史文化財団イメージアーカイブ

6 戸塚 元町別道(Totsuka, Motomachi Junction.)
 画面の右端、柏尾川の上に架かる橋の手前には、「左りかまくら道」の文字が書かれた道標が見えます。江戸から一〇里半(約四一キロ)の宿場である戸塚は、鎌倉に至る道への分岐点でもあったのです。一方で「こめや」と書かれた看板がかかる茶店の軒端には、参詣者の集団が旅の途中で残していく印「講中札」が下がっています。
ひょいと馬から飛び降りる男と、それを迎える茶屋の店員、馬の傍らで笠の紐を解こうとしている女性など、長旅の合間に人々が見せる一瞬のひとこまを、広重は遠くまで広がる景色とともに生き生きと描写しています。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 藤沢 遊行寺」

東京都江戸東京博物館 Image:東京都歴史文化財団イメージアーカイブ

7 藤沢 遊行寺(Fujisawa, Yugyōji Temple.)
 江ノ島への分岐点であった藤沢は、参詣者や観光客たちで賑わう場所でした。手前に見える鳥居は、江ノ島弁財天の一の鳥居。
橋の上には、大きな木刀を携えてこれから大山詣に向かおうとする人の姿が見えます。
背景の山中に堂々と姿を覗かせているのは、一遍上人が開いた時宗の総本山である遊行寺(清浄光寺)です。画面の中ほど、橋の向こう側に軒を連ねる家々の屋根は低めに描かれ、遠景にそびえる山と、近景に立つ鳥居とのバランスを保ちながら、一枚の画面の上で高低差をうまく表現しようとする広重の技が光ります。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 平塚 縄手道」

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8 平塚 縄手道(Hiratsuka, A Footpath between Ricefields.)
 まず目に飛び込んでくるのが、背景にそびえ立つまるまるとした山。高麗山です。
その隣に見える角ばった山は多くの参詣者が訪れた大山で、それら二つの山の間には富士山が小さく顔を覗かせています。画面手前の方に目を移すと、平塚宿に入って次の大磯宿へと通じる平坦な道が、田圃の中をくねくねと走っています。この縄手道を向こうから急いで駆けてくる飛脚。彼と今まさにすれ違おうとしているのは、お客さんを見つけられずに空っぽの駕籠を担いで大磯方面へ歩く駕籠かきの男です。自然の景色だけではなく、働く人々が秘めている様々なストーリーを、広重は巧みに暗示しているのです。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 大磯 虎ヶ雨」

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9 大磯 虎ヶ雨(Ōiso, The Sadness of the Rain.)
 この大磯宿は、ひとつ前の平塚宿とわずか二七町(約三キロ)ほどしか離れていません。そのため両宿場の間では、客引きたち同士がライバル心を燃やしていました。
この図では、旅人たちが雨の中やっとこさ宿にたどり着く様子が描かれています。大磯は伝説が多く伝わる地でもありました。
画中の瓢箪の形をした印の中に、白字で「虎ヶ雨」という副題が書き込まれていますが、これは、『曽我物語』に登場する遊女虎御前が、曽我十郎との別れを嘆いて流した涙が五月二八日に雨となって降る、という伝説に因んだものです。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 小田原 酒匂川」

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10 小田原 酒匂川(Odawara, The Sakawa River.)
 小田原宿にたどり着くには、相模湾に注ぐ酒匂川を渡らなければなりません。冬場は水量が減るため橋が架けられましたが、その他の季節には歩行渡です。江戸幕府は防御の目的で渡し舟の運行も橋の設置も許可していなかったのです。この図では、板に二本の棒をつけて四人でかつぐ平輦台とよばれるものに乗っている人もいれば、肩車で運ばれている人、そして多くの人足が担ぐずいぶんと豪華な駕籠で川を渡る人もいます。対岸の山の麓には宿場と小田原城が見えます。広重が山を鮮やかな藍色や橙色で色付けしているところもポイントです。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 箱根 湖水図」

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11 箱根 湖水図(Hakone, Lake Contours.)
 江戸を出発した旅人一行も、いよいよ東海道随一の難所、箱根八里にさしかかります。目の前で圧倒的な存在感を発揮する急な山々を越えないことには、先に進めません。広重は、標高八〇〇メートルを上回る山々の険しさがよく伝わるように、ゴツゴツとした山肌を多様な色彩を用いながら象徴的に表現しています。画面奥に見える真っ白い富士山も、ここでは脇役です。山あいの道を進んで行く大名行列の小さな姿を見ると、自然の底力が伝わってきます。画面左側には、青い水を湛えた芦ノ湖が広がり、静かに威厳を保っています。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 三島 朝霧」

東京都江戸東京博物館 Image:東京都歴史文化財団イメージアーカイブ

12 三島 朝霧(Mishima, Morning Mist.)
 険しい箱根の山々を越え、その後に続く下り坂を行くと三島宿に至ります。朝霧の中、三島大社の鳥居の前を通り過ぎる一行は、よく見るとまだ眠たそうな様子です。
彼らの他に、少し遠方に見えている人々や、背景の木々、家々のほとんどがシルエットで描かれています。そのような表現によって、広重は、霧がかかった朝の少し冷たく湿った空気のニュアンスを、絶妙に伝えることに成功しています。さらに、シルエットの部分はすべてが黒一色ではなく、異なる色使いや濃淡の差によって描き分けられている点も見どころです。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 沼津 黄昏図」

東京都江戸東京博物館 Image:東京都歴史文化財団イメージアーカイブ

13 沼津 黄昏図(Numazu, Twilight Scene.)
 広重が描いた東海道五拾三次のうち月の風景は非常に稀ですが、この図の中央には白い満月が描かれています。画面左に暗い色調の森が広がっており、あたりの薄暗さと月の明るさとの対比がイメージされます。
駿河湾に注ぐ狩野川に沿って、大きく曲がった平坦な道が伸び、その先の方には小さく旅人の姿が見えます。しかし、ひときわ目を引くのは手前の親子らしき二人連れと天狗の面を背負った人物でしょう。彼らの正体については諸説があり、ひとつには、お蔭参りと金比羅参りの道中の人々であると考えられています。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 原 朝之冨士」

東京都江戸東京博物館 Image:東京都歴史文化財団イメージアーカイブ

14 原 朝之冨士(Hara, Mt. Fuji in the Morning.)
 幅の狭いグラデーションの彩色を画面上部に施す「一文字ぼかし」とよばれる浮世絵の技法によって、朝焼けに赤く染まる空と富士山の様子が美しく表現されています。
富士山の頂上は画面の枠の外まで突き抜け、堂々たる姿です。右手に見えるのは、ギザギザとした形状から「鋸が崇」とも言われた愛鷹山、二羽の鶴が居るのは浮島沼周辺の低湿地です。手前には親子らしき女性が二人。そのお供をする、挟箱を担いだ従者の着物を良く見てみると、作者広重の「ヒロ」という片仮名二文字をデザインした文様が描き込まれています。広重の遊び心がこんなところにも見え隠れしているのです。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 吉原 左冨士」

東京都江戸東京博物館 Image:東京都歴史文化財団イメージアーカイブ

15 吉原 左冨士(Yoshiwara, Mt. Fuji on the Left.)
 江戸から京都へと向かう東海道の旅の途中、富士山はいつも右側に見えています。
しかし、本図では副題に「左冨士」とあるように、富士山が向かって左側に姿を現しています。実はここ吉原宿あたりでは道が大きく曲がっているために、富士山が左側に見える貴重なスポットがあるのです。こちらに背を向け、馬に乗って進む子どもたちの表情は見えませんが、遠くまで続く松の木の間に富士山を見つけて喜ぶ顔や、はたまた居眠り中の様子などを想像してみると、鑑賞の面白さが一層広がります。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 蒲原 夜之雪」

東京都江戸東京博物館 Image:東京都歴史文化財団イメージアーカイブ

16 蒲原 夜之雪(Kanbara, Evening Snow.)
 空は暗く、あたり一面雪景色。画面を一目見るだけで、静寂の中しんしんと降る雪の様子、空気の冷たさが想像されます。寒そうに坂を登る二人の人物と、彼らとは逆の方向に歩を進める、傘で頭部をすっぽりと覆い隠した人物。雪の上の足跡が、旅人たちの辿ってきた道を想起させ、時間の経過をも伝えています。実は、蒲原ではあまり雪が降らない気候の土地です。したがって、この図は広重の想像であるという説もあります。真相は謎に包まれたままですが、様々な時間帯、異なる天気の中で、自然や人々がみせる表情を、広重はできる限りのいろいろな趣向で描き表してみたかったのでしょう。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 由井 薩埵嶺」

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17 由井 薩埵嶺(Yui, Satta Pass.)
 画面左に切り立つのは薩埵峠です。東海道五拾三次のうちでも、ここは崖が開けて富士山が突如姿を現すという、絶景ポイントのひとつです。峠の上から、見事な富士山と眼下に広がる駿河湾を望む旅人たち二人はまるで歓声をあげているかのような様子ですが、その近くを通行する柴を担いだ男にとっては、ふだんの見慣れた景色なのでしょう。垂直にそそり立つ崖、急な傾斜の岩、横に走る水平線、斜めに伸びる松の枝などの描写が、一枚の画面の上で互いにうまく調和をしながら、絶妙な構図をつくりあげています。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 興津 興津川」

東京都江戸東京博物館 Image:東京都歴史文化財団イメージアーカイブ

18 興津 興津川(Okitsu, The Okitsu River.)
 画面の中央を走るのは、やがて駿河湾へと注ぐ興津川です。この興津川、冬場は仮橋が架けられていましたが、それ以外の季節に川を越える際にはやはり人足の力が不可欠でした。面白いことに、本図で広重が旅人として描いたのは、なんとも異例の相撲取りです。巨漢を乗せた駕籠を担ぐ駕籠かきたちの中には、重そうに顔をしかめている者もいます。松林がある背景の一体は、万葉集にも詠まれた許奴美の浜でしょう。帆掛け船の白い帆が映えます。画面に描かれてはいないものの、興津宿は奈良時代に建立された清見寺でも有名でした。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 江尻 三保遠望」

東京都江戸東京博物館 Image:東京都歴史文化財団イメージアーカイブ

19 江尻 三保遠望(Ejiri, Distant View of Miho.)
 江尻は現在の静岡県清水区です。遠くに愛鷹山系と、万葉の昔から知られた景勝地、三保の松原が見え、眼下に広がる清水湊の水面には、帆を上げて港を往き来する船がはるか水平線近くまで続いています。すこし手前に目を移すと、まだ停泊している船もあり、わずかに見えている宿場町の家々の屋根とともに、静かな雰囲気を醸し出しています。広重は東海道五拾三次のほとんどの図の中に旅人たちを登場させていますが、この作品では目立った人の姿はありません。
ただ純粋に、目の前の景色をゆっくり味わってみることとしましょう。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 府中 安倍川」

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20 府中 安倍川(Fuchū, The Abe River.)
 府中とは国府のあったところで、晩年の徳川家康が過ごした駿府の地、つまり現在の静岡市にあたります。川を渡る人々の描写は、広重の東海道五拾三次の中ではお馴染みですが、この作品で特に面白いのは、手前の三人の女性たちが、それぞれ肩車、平輦台、駕籠という、みな違った方法で川を渡る様子がはっきりと確認できる点です。
向こう側からの三人の人足にサポートされながら、荷物を積んだ馬も一生懸命川を渡ってきます。右端の笠を被った男の背に描きこまれている「竹」の文字を丸で囲った文様は、版元の竹内孫七を示しています。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 鞠子 名物茶屋」

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21 鞠子 名物茶屋(Mariko, Local Specialty Teahouse.)
 鞠子の宿は小さな宿場町ですが、江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉が「梅若葉 まりこの宿の とろゝ汁」と詠んでいるように、とろろ汁が有名でした。この作品に描かれている茶屋の前には「名物とろゝ汁」の看板が大きく掲げられ、さらに右手には「御茶漬」、「酒さかな」、左の柱にも「御ちゃ漬け」の看板が見えます。店先で腹ごしらえする二人の旅人は、十返舎一九の戯作『東海道中膝栗毛』に登場する弥次喜多を思い起こさせます。茶屋の女性は子どもを背負ったまま、接客に忙しそうです。空は「一文字ぼかし」とよばれる彩色技法によってほんのり赤みがかかり、長旅の合間ののどかなひとときが伝わってきます。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 岡部 宇津之山」

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22 岡部 宇津之山(Okabe, Utsu Pass.)
 ひとつ前の宿場、鞠子の名物とろろ汁やお茶づけでお腹を満たした旅人たちを待ち構えるのは、箱根や大井川と並ぶ東海道の難所、宇津之谷峠です。画面の中央を急な岡部川が走り、それを左右の圧倒的な急斜面が挟みます。手前からは重そうな荷物を背負ってこの難所に挑む人々の姿が、そして向こうからも険しい坂道を登ってくるひとの姿が見えます。画面の中には描かれていないものの、右の山中には『伊勢物語』に書かれたこれまた険しい「蔦の細道」があり、平安時代以降、桃山時代に解説された新道に取ってかわられるまで使用されていました。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 藤枝 人馬継立」

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23 藤枝 人馬継立(Fujieda, Horse and Porter Supply Station.)
 現代では宅配便で素早く簡単に荷物のやりとりができますが、江戸時代には各宿場に設置された「問屋場」といわれる施設で、人足の馬の引き継ぎが行われることで、手紙や荷物が運ばれていました。いわゆる「駅伝制度」です。副題に「人馬継立」とあるように、この作品はまさにその情景を表しています。ようやく引き継ぎを終えて煙草をふかし一息つく人もいれば、帳面を片手に忙しそうに指示を出す帳付けや天秤棒に荷物を取り付けて出発の時を待つ、少し緊張した様子の人足の姿も見えます。広重の巧みな人物描写によって、同じ場面に居合わせる人々それぞれの異なる心境を想像することができます。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 嶋田 大井川駿岸」

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24 嶋田 大井川駿岸(Shimada, The Ōi River.)
 東海道の三大難所といえば、箱根の山、宇津之谷峠、そしてこの大井川です。駿河と遠江の境を流れる大井川は川幅が一二町(約一・三キロ)にも及び、東海道で最大の、非常に急な流れの川でした。広重は、川を渡る人々の姿を俯瞰するような視点で描いています。肩車や輦台など様々な方法で川越えをする人たちの後ろには、弓や槍、大量の荷物を携えて間も無く目の前の大河に挑もうという大名行列の一行が順番を待っています。「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」の唄からも想像されるように、旅人たちの決死の思いが伝わってきます。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 金谷 大井川遠岸」

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25 金谷 大井川遠岸(Kanaya, The Ōi River from the Opposite Bank.)
 一つ前の嶋田宿の図では駿河の方から俯瞰した大井川が描かれていますが、本図で表されている遠江の側から見た大井川の情景です。「越すに越されぬ」と唄われた巨大な大井川は、東海道で一番の難所。大きな荷物を背負ってこの急流を渡る人々の不安な心境は想像に難くありません。今まさに川岸にたどり着こうとしているのは大名行列の一行、対岸には無事に渡り終えた安堵感からか寝転ぶ人の姿もあります。画面右手の山並みの中に小さく見えているのが金谷宿で、大井川を隔てた嶋田宿とともに、難所を越える旅人たちにとって欠かすことのできない宿場町として大繁盛しました。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 日坂 佐夜ノ中山」

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26 日坂 佐夜ノ中山(Nissaka, Sayo no nakayama Pass.)
 金谷宿を出発して日坂へ向かうまでは、急斜面の峠道が続きます。佐夜の中山とよばれるこの筋道も、画面に一目瞭然のようにとても急な坂道でした。道の真ん中にどんと座す石は通称「夜泣き石」。「かつて日坂の峠で妊婦が山賊に殺されたが、赤ん坊は助かった」という伝説に因み、その妊婦の霊が宿った石とされています。描かれた旅人たちの姿を見ると、うわさの石を見つけて興味津々の様子。あれこれ話題にしている声が聞こえてくるようです。遠くに見える無間山の山中にある観音寺の鐘にも、「これをつくと現世では金持ちになるが来世では最も恐ろしい無間地獄へ落ちる」というなんとも奇妙な伝説が伝わります。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 掛川 秋葉山遠望」

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27 掛川 秋葉山遠望(Kakegawa, Distant View of Mt.Akiba.)
 右手に秋葉山を望み、倉真川に架かる大池橋を渡っている旅人たち。向こうからやってくる僧侶の後ろには、疲れた顔の男が一人続きます。手前からは腰を屈める年取った二人と、彼らとは対照的に元気な様子で進む子供の姿。掛川は太田家五万石の城下町で、この橋を渡れば、道は火防の神様として信仰を集めた秋葉権現へと続いていました。よく見ると、画面の枠をはみ出して凧が空高く上がる様子が描かれ、遠くにも糸の切れた凧が漂っています。実は五月の端午の節句頃、田植えの成功を願って凧揚げが行われる習慣がありました。右の方には田植えをする人々、空は深い青の一文字ぼかしで描かれ、すっきりと爽やかな印象です。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 袋井 出茶屋ノ図」

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28 袋井 出茶屋ノ図(Fukuroi, Open-air Teahouse.)
 街道筋に木陰などを利用して設けられた簡単な休憩所を「出茶屋」と言いました。
宿場の境界を示す榜示杭のそばで荷物を降ろし、束の間の休息をとる旅人たち。木からヤカンを吊り下げて石のかまどに火をおこしている二人の間には、煙がもくもくと立ち上ります。画面左端をよく見てみると、簡素な店先には草鞋が売られています。長く険しい東海道の旅では、履物の寿命は三日ともたなかったようです。画面右端に目を移すと、立て札にはちょこんと鳥が止まり、遠くの田んぼでは農夫がひとり馬を引いています。もうすっかり刈入れが終わったのでしょう。大小の藁塚が並び、秋の気配を感じさせます。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 見附 天竜川図」

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29 見附 天竜川図(Mitsuke, The Tenryū River.)
 見附宿から次の浜松宿へ行くためには、「あばれ天竜」の異名をもち度々氾濫した天竜川を渡らなければなりません。船渡しが許可されていたため肩車や輦台に頼らなくて済んだものの、川は中洲を挟んで大天竜と小天竜とに分かれており、水が増えて中洲が消える時以外は一気に渡り切ることができませんでした。中洲の向こうの方には、まさに川越えの最中の人々が見え、喧騒が聞こえてくるようです。一方手前では、船頭たちが渡し舟の上で静かに次の客を待っています。遥か遠くには、生い茂る木々が薄墨のぼかしで表現させ、画面に情趣を添えています。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 浜松 冬枯ノ図」

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30 浜松 冬枯ノ図(Hamamatsu, Desolate Wintry Scene.)
 中央でひときわ存在感を放つ大きな杉と、その下に集って焚き火をする旅人たち。冬にもかかわらず素肌を出した人の姿からは、寒さに負けず東海道の長旅を続けるたくましさが感じられます。もくもくと立ち上る煙に注目してみると、火元の方は黒っぽく、上空に近いところほど白っぽく描かれており、広重の細やかな工夫を見て取ることができます。冬枯の田んぼの右手奥の方に見える数本の松の群れは、かつて足利義教がそこで宴を開き、「浜松の音はざゞんざ」と謳ったことから呼び名が生まれた「ざゞんざ松」を表していると考えられています。
それら松並木りさらに向こう側に小さく見えているのが、浜松城とその城下町です。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 舞坂 今切真景」

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31 舞坂 今切真景(Maisaka, True View of Imagire.)
 次の荒井宿へ到着するためには、陸路からしばし水路に切り替え、浜名湖を渡らなければなりません。実はこの今切の地は、かつて砂州があって陸続きでしたが、明応七(一四九八)年の大地震によって決壊し、浜名湖と海とがつながってしまったのです。ただし場合によっては、湖を渡らずに、わざわざ北側の本坂街道を通るルートを選択することもあったようです。画面手前には防波の目的で江戸幕府が設置した杭が立ち並んでいます。青く広がる水の向こうにどんと腰を据える黒々とした山は、おそらく広重が想像して描いたものと考えられています。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 荒井 渡舟ノ図」

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32 荒井 渡舟ノ図(Arai, Ferry Crossing.)
 長い長い東海道の旅路も、この荒井宿あたりまで来ればようやく後半戦にさしかかります。浜名湖の今切の渡しの海上を船で数キロ渡っていくと、荒井の関所にたどり着きます。箱根宿の関所と同様に取り調べが厳しかったため、旅人たちも気持ちがはらはら落ち着かなかったことでしょう。画面の中ほどに見えているのは御座船で、白鳥毛槍や幔幕などが取り付けられ、吹き流しが風になびいて厳めしい様子です。それとは対照的に、手前に見えているお供の船の上には、大あくびをする人の姿が見受けられ、どこかのんびりとした雰囲気が漂っています。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 白須賀 汐見阪図」

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33 白須賀 汐見阪図(Shirasuka, The Shiomi Hills.)
 江戸から京都へと向かうのとは逆のルート、つまり東海道を京都から江戸へ下る旅路では、この白須賀あたりが、初めて富士山を見ることができる地点でした。汐見阪の稜線が画面の左右でゆるやかなカーブを描き、その合間を歩く旅人たち一行の笠が、画面にリズミカルな印象を添えています。そして背景には広々と開ける青い遠州灘。まさに「汐見阪」という名前にふさわしい景観が、広重による巧みな画面構成によって見事に表現されています。手前を行く二人が背負う挟箱には、広重の「ヒロ」のロゴが何気なく刻まれており、作者のユーモアや自信のほどがうかがえます。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 二川 猿ヶ馬場」

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34 二川 猿ヶ馬場(Futagawa, Sarugababa Plain.)
 二川宿が位置しているのは三河国でしたが、猿ヶ馬場があるのは隣の白須賀宿のすぐ西、まだ遠江国のエリアでした。このあたりは小松が広がる景勝地であっただけでなく、柏餅でも有名でした。画面背景の松原と前景の道、それぞれの部分でゆるやかな弧を描く二本の線を目で追ってゆくと、二つが接近するあたりに「名物かしハ餅」と書かれた看板が見え、ちょうど旅人が餅を買っているところです。手前の三人は、意外にも三味線を携えています。彼女たちは「瞽女」とよばれる門付女芸人なのです。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 吉田 豊川橋」

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35 吉田 豊川橋(Yoshida, Toyokawaw Bridge.)
 豊川橋は吉田大橋、豊橋ともよばれ、全長約一二〇間(約二一八メートル)にも及ぶ東海道の三大橋の一つでした。橋下には、交易の要所であっただけでなく、伊勢参りの人々の交通の拠点ともなった吉田湊があります。画面右側で目を引くのは、大河内松平氏のシンボルである吉田城と、そのまわりに組まれた修理のための足場、そして作業する人々の姿です。その櫓の一番高いところにしがみつき、眼下を一望する人の存在によって、画面の遠近感が一層効果的に強調され、橋の大きさやその周辺の景色の広大さを、まるで私たちも一緒に眺めているかのように想像することができます。

広重

「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 御油 旅人留女」

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36 御油 旅人留女(Goyu, Travellers and Soliciting Women.)
 日も暮れるころ、客引きたちは旅人をどうにかして自分の店に呼び込もうと必死です。特にここ御油宿の女たちは力ずくで旅人たちを捕まえようとしたため、要注意でした。画面右の旅籠の中には、すでに留女たちの巧みな客引きに負けたのでしょうか、足を洗う旅人の姿が見えます。その後ろの壁に貼られた札に注目してみると、「彫工次郎兵エ」、「摺師平兵衛」そして広重の画号である「一立斎図」、さらに円形の大きな看板には版元の保永堂を示す「竹之内板」の文字が刻まれ、東海道五拾三次の錦絵シリーズをちゃっかりとアピールする工夫が読み取れます。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 赤阪 旅舎招婦ノ図」

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37 赤阪 旅舎招婦ノ図(Akasaka, Serving Women of the Inn.)
 自然景観と旅人たちを合わせ描いた作例が大半を占める広重の東海道シリーズですが、この赤阪宿の図は、旅人たちが旅籠の中でどのように過ごしていたのかをまさに垣間見ることができる、面白い一枚です。
一風呂浴びたばかりなのか、汗を拭き拭き部屋へ戻る者、煙管を吸ってくつろぐ者、そして彼らをもてなす飯盛女たちの姿があります。蘇鉄と石灯篭がどんと腰を据える中庭から部屋の奥の方までを覗き込むような構図の工夫が見事です。画面中程の横からちらりと覗く「御用」の提灯は、公務の一仕事を終えた継飛脚がそこで休んでいることをほのめかします。次の藤川宿までしばし体力温存といきましょう。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 藤川 棒鼻ノ図」

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38 藤川 棒鼻ノ図(Fujikawa, Scenes around the Relay Station Marker.)
 「棒鼻」というのは宿場のはずれのことを示します。画面の左右には盛土、そこからやや見下ろすような視線の先に描かれている一行は、江戸幕府が毎年八月一日に朝廷へ馬を献上する「八朔御馬献上」の行列と思われます。重役たちの到着を事前に告知されていた宿場の役人たちが、榜示杭や関札のそばで一行を出迎えています。かしこまる人間たちの姿とは対照的に、画面端でじゃれ合う三匹の小犬たちの姿がなんともユーモラスです。一説に、本作は広重が実際に八朔御馬献上の行列に加わって京都へ向かい、その体験をもとにして描いたとも言われています。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 岡崎 矢矧之橋」

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39 岡崎 矢矧之橋(Okazaki, Yahagi Bridge.)
 徳川家康生誕の地、岡崎。岡崎城下の東海道は「二十七曲がり」といわれる複雑に曲がりくねった道となり、やがて矢矧川に至ります。本図では、東海道中で最長、二〇八間(三七八メートル)という全長を誇る矢矧川が主役です。橋の向こう側には岡崎城が見えています。実はこの作品で広重は、橋の欄干の柱の先に本来付けられているはずの宝珠形の飾り「擬宝珠」を省略してしまっています。そのため、東海道随一の巨大な橋としてはやや威厳に欠く印象も否めません。一方、この保永堂版とは別の、同じく広重による『行書東海道』では、岡崎の図に橋をクローズアップした構図を採用し、擬宝珠もしっかり描き込まれています。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 池鯉鮒 首夏馬市」

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40 池鯉鮒 首夏馬市(Chiryū, A Horse Fair.)
 「池鯉鮒」は、現在では「知立」と書きます。旧暦の四月、この地の東に位置する牛田近辺では、約十日間にわたって馬市が催されました。年に一度のこの大イベントに集まる馬は四〇〇~五〇〇頭にものぼり、大勢の商売人たちで大賑わいです。本図からは、杭につながれいよいよ競りにかけられる時を迎えた多種多様な馬たちが、青々とした草原にひしめく生き生きとした様子が見て取れます。画面中央の大きな松の木は「談合松」と呼ばれ、ここに馬飼や馬喰たちが集まって馬の値段を議論し、熱い取引が行われたのでした。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 鳴海 名物有松絞」

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41 鳴海 名物有松絞(Narumi, The Famous Arimatsu Dyeing Shops.)
 鳴海宿の東一里に位置する有松は、有松絞りの名産地でした。絹や木綿に藍や紅で絞染めを施した有松絞りは、単純に東海道の土産物というだけでなく、尾張藩の特産品として大切に護られてきました。描かれた二階建ての立派な店の中を覗いてみると、手ぬぐいや浴衣など、とりどりの商品が並んでいます。手前の女性は通りがかりに興味をそそられている様子。店舗の脇には火災に備えた天水桶が、そして店先の暖簾には広重愛用の「ヒロ」の印、版元を示す「竹内」、そして「新版」の文字がさらりと描きこまれ、東海道五拾三次シリーズの宣伝効果を狙った粋な趣向がうかがえます。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 宮 熱田神事」

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42 宮 熱田神事(Miya, The Atsuta Horse-Driving Festival.)
 宮は日本武尊の草薙の剣が祀られた熱田神宮の門前町です。画面右手にはその鳥居が大きく描かれています。ここでは毎年五月五日に「馬の塔」と呼ばれる神事が催されました。馬には、豪華に飾り立てられた「本馬」と、本図に表されているように粗篭を巻きつけただけの「俄馬」の二種類がありました。手前で威勢を放つ男たち一軍は、隣の鳴海宿の図で主題となっていた名物有松絞りの紅い半纏と、小気味好い色彩のコントラストをなしています。今にも賑やかな掛け声が聞こえてきそうな一場面、画面左奥には建物の中からその様子を伺う人々の姿も見られます。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 桑名 七里渡口」

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43 桑名 七里渡口(Kuwana, The Seven-ri Ferry Crossing.)
 宮宿から桑名宿までは海上七里(約二八キロ)の船旅であったため、「七里の渡し」と称されました。三方を海に囲まれた久松松平氏一一万石の桑名城に、本図ではちょうど二隻の船が到着するところです。船の中を覗いてみると、どうやらたくさんの旅人たちがひしめいている様子。定員は四〇~五〇人程度でした。伊勢内海の海原は鮮やかな青、水平線にはうっすらと山並みが見えています。手前側の海面は色調がまた異なっており、こちらに打ち寄せる大きめの波は、波頭が白抜きの小さな点によって表されキラキラと光を映じる光景が伝わってきます。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 四日市 三重川」

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44 四日市 三重川(Yokkaichi, The Mie River.)
 急な強風が吹いたのでしょう。ふいに菅笠を奪われて慌ててそれを追う旅人と、簡素なつくりの板橋の上で合羽を押さえ必死に耐える旅人、そして中央には枝葉を振り乱して靡く柳の木。目には見えない「風」も、広重の手にかかればこの通り、見事に表現されます。四日市宿は伊勢神宮街道の要所でもあり、その中心を流れているのが、副題にある「三重川」、別名「三瀧川」とも呼ばれた川でした。川辺には葦が茂り、少し覗く小舟が画面に風情を添えています。左に家々の屋根と船の帆が見えており、そのあたりが四日市湊と解ります。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 石薬師 石薬師寺」

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45 石薬師 石薬師寺(Ishiyakushi, Ishiyakushiji Temple.)
 浪瀬川が流れる低地を過ぎると石薬師宿に到着します。宿場の名は、西側を下る斜面にあった石薬師寺に因みます。本図を見ると、ちょうどその山門に向かって田んぼのあぜ道を進む旅人と、門前を馬子に曳かれて進む旅装の武士らの姿があります。向かって右側の田んぼに目を移すと、すっかり刈り入れが済んだと見え、積まれた藁塚の前で地元の農夫たちが鍬を片手に土地の手入れをしているところ。それらの光景と、涼やかな色彩で描かれた背景の山肌や紅色がかった空とが相俟って、ひんやりとした秋の日暮れの空気が伝わってきます。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 庄野 白雨」

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46 庄野 白雨(Shōno, Rainstorm.)
 「白雨」とは夕立のこと。突然降りだしたのか、激しい雨に身をかがめながら坂を駆け上がる農夫に続き、駕籠かきたちは客が濡れないように駕籠に覆いをかけて進みます。彼らと反対方向へ行く旅人たちも、どこか雨宿りできそうな場所を見つけんと急いでいるかのようです。濃淡に三段階の変化がつけられた背景の竹やぶの描写によって画面に奥行きが生まれ、また、大きくなぎ倒されそうに湾曲したその形状から、強い風のイメージも掻き立てられます。
庄野宿は隣の石薬師宿との間隔が短く、小さな宿場町ではありましたが、叙情豊かな雨の光景を表した本図は、広重の東海道五拾三次のうちでも不動の人気を誇ります。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 亀山 雪晴」

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47 亀山 雪晴(Kameyama, Clear Winter Morning.)
 あたり一面銀世界。一歩足を踏み外せば滑り落ちてしまいそうに急な雪の斜面を、旅人一行は進みます。斜面の上に見えるのが亀山城の石垣と京口門、そこを入れば宿場町です。このように城と近接する宿場はめずらしく、城の大手門を出るとそこはもう東海道でした。全体的に白の占める割合が多い画面の中で、中央にそびえる老松と、空の鮮やかな一文字ぼかしの藍、そしてうっすらと加えられた背景の紅色が情趣を添えています。山の稜線や旅人たちが成す列など、あらゆる斜面の方向性と角度が画面上で調和を保ち、清々しい雪晴れのイメージが完成しています。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 関 本陣早立」

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48 関 本陣早立(Seki, Early Departure from a Daimyo’s Inn.)
 かつての鈴鹿の関の跡地、関宿。まだ夜も明けきらない頃、大名たちが宿場内の滞在場所である本陣にて身支度を整えている場面、という珍しいしゅだいの一図です。定紋入りの幔幕が堂々と掲げられ、提灯の明かりのもとで槍などの準備が着々と整えられていく状況は、どこか緊張感を孕んでいます。画面右手に描かれている棹には、宿泊している大名の名を記した関札という木札が架けられ、一方、本陣内には「美玄香」や「仙女香」などといった化粧品の宣伝効果も見受けられます。さらに、奥の足軽が両手に提げている提灯には、広重が愛用した「ヒロ」の紋がさりげなく入れられています。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 阪之下 筆捨嶺」

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49 阪之下 筆捨嶺(Sakanoshita, Mt. Fudesute.)
 関宿から阪之下宿に向かう途中にある名勝筆捨山は、実の名を岩根山といいます。
室町時代に狩野派を大成させた古法眼狩野元信が、かつて蓬莱山に似たこの山を描こうとしたものの思うように描き切れず、ここに筆を捨てたという故事に因んで、「筆捨山」の呼称が定着しました。画面左にそびえる奇岩古松の黒い山肌には滝も流れ、厳しい表情です。鈴鹿山を挟んで対岸には立場茶屋が設けられており、本図では旅人たちがそこでほっと一息つきながら、目の前に広がる絶景に、旅の疲れもしばし忘れているかのような様子を垣間見ることができます。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 土山 春之雨」

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50 土山 春之雨(Tsuchiyama, A Spring Shower.)
 近隣の田村川が雨によってしばしば増水したことから、土山宿あたりには「坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」という馬子唄が伝わります。鈴鹿峠を境に、こちら側とあちら側で天候ががらりと変わりやすく、そのような気象はこの地域に特有なものでした。春の雨の中、急な流れの川辺を笠と合羽を身につけて、雨に耐え忍ぶかのようにやや前かがみになって進む一行。彼らの向かう先には、坂上田村麻呂を祀った田村神社があります。全体的に薄暗い画面の奥には林が茂り、どことなく厳かな雰囲気が漂います。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 水口 名物干瓢」

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51 水口 名物干瓢(Minakuchi, Dried Ground Shaving, the Local Specialty.)
 鈴鹿と山城の山々に囲まれた水口一帯は、野洲川の支流沿いにある盆地であり、水が豊富なことで知られていました。画面左の三人の女性たちがせっせと取り組んでいるのは干瓢づくり。地面に敷いた筵の上にまな板を設え、瓜科・ユウガオの大きな実を、途中で切れないよう慣れた手つきで細長く剥くと、棒に渡した縄に手際よく干していきます。よく見ると右奥の家屋の前でも、同じ作業をしている人の姿があります。この図からは、東海道中の自然景観や名勝そのものよりも、旅の最中でふと目に止まる地元民の日々の生業の一コマと、彼らが生産するご当地名物を捉える、広重の親和的な眼差しをうかがうことができます。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 石部 目川ノ里」

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52 石部 目川ノ里(Ishibe, Mekawa Village.)
 石部と草津の間に位置する目川の里は、田楽豆腐と菜飯が名物でした。この図では、江戸の戯作者・大田南畝の旅日記『改元紀行』の中でも好評を博した茶屋「伊勢屋」を描きます。賑わう店内、客をもてなす茶屋女、そして街道表には、踊るような仕草で通過していく旅人たち、そこから少し離れたところに、大きな俵を背負って一心に進む親子らしき二人の背中が見えます。道中で居合わせる様々な境遇の人たちの心境までも、生き生きと想像できます。背景には比良の山があり、すなわち琵琶湖が近いことがわかります。となれば、終着点の京都へはもうさほど遠くはありません。しっかり腹ごしらえをして、もうひと頑張りです。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 草津 名物立場」

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53 草津 名物立場(Kusatsu, A Local Speciality Store.)
 中山道と合流する草津宿を過ぎたところ、矢倉村にあった立場茶屋の一場面です。ここは、「姥が餅」を名物とする茶屋でした。
「姥が餅」は、一説に、織田信長に滅ぼされた佐々木義賢の子を養うため、その乳母が餅を売り出したことに由来するとも言われています。店舗正面に「うばもちや」の看板を掲げた茶屋は、奥の方まで見通しが利く構図で描かれています。店内では、餅を求めて集った旅人たちの賑やかな休憩時間のひとときが展開しています。一方、店の前には巨大な荷物を担いでまさに仕事真っ最中の人足たち、そして彼らとすれ違う威勢の良い早駕籠の男たち。振り落とされないようにしがみつく駕籠の中の旅人の姿もユーモラスです。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 大津 走井茶屋」

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54 大津 走井茶屋(Ōtsu, The Hashirii Teahouse.)
 終着点の京都までもう一息、東海道最後の宿場、大津宿は、草津宿とともに一番の繁栄ぶりを誇っていました。船便によりひっきりなしに届く琵琶湖周辺の産物はここ大津で荷下ろしされ、そこからは牛車にバトンタッチです。重い荷物を乗せて連なる牛車の列、この図では牛たちに日差し避けのための幌がかけられていることから、夏場の光景とわかります。画面左側に、本図の副題となっている「走井茶屋」が見えます。この地にあった名井戸の豊かな湧き水の呼称「走井」に因んだこの立場茶屋は、まさに旅人たちの渇いた喉を潤すオアシスでした。

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「歌川広重(初代) 東海道五拾三次之内 京師 三條大橋」

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55 京師 三條大橋(Keishi, The Great Sanjō Bridge.)
 鴨川にかかる三条(條)大橋は天正一八(一五九〇)年、豊臣秀吉の命令によって改修され、初めて石製の橋脚を用いた橋となりました。橋を俯瞰する構図で描かれた本図では、長さ約百メートルの橋上を行き交う人々の姿を観察することができます。行商人、番傘をさす武士、茶筅売り、公家か武家の出身と思しき衣を被った娘などなど、彼らのよそおいは実に様々です。大いに繁栄をみせる宿場の雰囲気を肌で感じながら、眼下に鴨川を、そして遠方には東山と比叡の山々を望み、江戸から約五〇〇キロの長旅をいよいよ終えようとしている旅人たちの胸中は、まさに感慨無量であったに違いありません。

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